ロシアは、アジア大陸の北半分とヨーロッパの東半分を占める世界最大の面積を持つ国で、日本とはサハリンや千島で近接しています
9世紀のノブゴロド公の支配に始まり、13世紀にモンゴルのキプチャク・ハン国支配を経て、15世紀にロシア帝国が成立しました。
1917年のロシア革命でロマノフ王朝が倒され、レーニン率いる共産党によって1924年に世界初の共産主義国家「ソビエト連邦」が誕生し、第二次大戦後はアメリカと対峙して世界の冷戦構造を作りました。
しかし、経済破綻や共産主義の矛盾の露呈から、1991年に連邦が崩壊、冷戦終結とともに、市場経済への移行が始まって現在に至っています。
広大な国土ながら、厳しい自然条件の地域が大半を占め、人口が集まるのはヨーロッパ地域と中央アジア諸国周辺、および極東のと偏っています。
旅行に当たっては、民主化へ移行後の歴史が浅いため、個人で手配する旅行はスムーズに行かないケースも見受けられますので、専門の旅行会社を通すほうがいいようです。
面積 : 1707万ku(日本の45倍)
人口 : 1億4240万人(2006年)
人種 : ロシア人(8割)、他100を超える民族
言語 : ロシア語
宗教 : ロシア正教をはじめカトリック、プロテスタント、イスラム教、ユダヤ教、仏教などさまざま
《気候》
全体に年較差の大きい亜寒帯から寒帯の気候で、短く冷たい夏と、長い厳寒の冬です。特に東シベリアは人間の居住する地域としては世界で最も寒い地です。
逆にヨーロッパ南部は温和で、黒海沿岸では夏暑く、乾燥した気候になります。
《時差》
広大な地域のため国内で11の標準時間帯があります。主要な都市は次の通りです。
また、3月最終日曜日から10月最終日曜日はサマータイムを採用しています。
モスクワ、サンクトペテルブルク : 日本標準時 − 6時間、サマータイムでは − 5時間
イルクーツク : 日本標準時 − 1時間、サマータイムでは ± 0時間
ハバロフスク、ウラジオストク、サハリン : 日本標準時 + 1時間、サマータイムでは + 2時間
《アクセス》
モスクワまで成田空港から10時間25分です。
ウラジオストクまで、関西空港から1時間50分、新潟空港から1時間30分です。
《ビザとパスポート》
事前にビザ取得が必要です。観光ビザは事前に旅行代理店を通じてすべての宿泊ホテル予約が必要です。
パスポートは出国予定日+3週間以上の残存有効期間が必要です。
ロシアは入出国時点や、滞在中においても外国人の身分証明に関して厳しいチェックがかかります。パスポートやビザは汚れや損傷でも入国拒否された例があります。また、市街地でも警官がパスポートやビザの提示を求めることがありますので、いつ何時でも提示できるよう携帯しましょう。
(重要)2007年1月より、同一場所に3日以上滞在する外国人は、3日経過後にその地の移民局に「到着通知書」を提出する決まりになりました。行わなかった場合は警察に連行されることもあります。また逆にこの措置を悪用して、書類不備を理由に警官がワイロを要求する事例もあります。
事前に旅行社や外務省を通じて内容の詳細を問い合わせておくことをお勧めします。
ロシアの観光地ガイドのページ
モスクワとサンクトペテルブルク(このページ)|ロシア各地
ロシア旅行に関する基本情報、雑学、関連サイトリンクなどのページ
ロシア旅行のいろいろ情報
ロシアへのツアー情報のページ
ロシアへのツアー
ロシアへのツアー予約
《JTB》
モスクワ
サンクトペテルブルク
スズダリ
ウラジオストク
ハバロフスク
《日本旅行》
モスクワ
サンクトペテルブルク
その他各地
ロシアへの格安航空券の予約
モスクワ
サンクトペテルブルク
ロシアのホテル予約
モスクワ
サンクトペテルブルク
ウラジーミル
スズダリ
ヤロスラブリ
イルクーツク
ウラジオストク
ハバロフスク
ユジノサハリンスク
観光地ガイドのガイド
●自然物・景観・公園 ●人工庭園・公園 ●保養地 ●遊園地 ●遺跡 ●史跡 ●町・村・集落 ●繁華街・通り・広場
●寺院・教会 ●美術館・博物館 ●城・宮殿 ●その他建築物 ●有名人記念館 ●市場・商業施設 ●生産施設
★世界遺産
・ガイド中の距離記述は、管理人が地図から求めた直線距離です。
ロシア西部にある、人口1100万人を擁する首都です。
12世紀に砦ができ、14世紀にモスクワ大公国の中心地となりました。1712年にサンクトペテルブルクに首都は移されましたが、1918年に再びソビエト連邦の首都として戻され、現在に至っており、ロシアの政治経済文化の中心地となっています。
町の中心をモスクワ川(Река Москва)が蛇行して流れ、クレムリンを中心に同心円状の通りと放射状の通りで町が造られています。
モスクワ中心部の地図 : 地図上をクリックすると拡大します。中心がクレムリンです。
市街の中心部、モスクワ川の北岸にあるかつてのロシア帝国の宮殿です。
1156年に造られた砦が最初で、15世紀末にイワン3世が現在のような城塞に拡充し、時代とともに手を加えてきたものです。三角形をした26haの敷地を約2.2kmの城壁が囲み、内部には多くの宮殿や寺院があり、帝政時代は皇帝の居城でしたが、ソ連時代は共産党の中枢が置かれ、現在はロシアの大統領府と大統領官邸が置かれています。
入場ができるのは、西側の「トロイツカヤ塔(Троицкая Башня/ Trinity Tower)」か、南西側の「ボロビツカヤ塔(Боровицкая Башня/ Pine-Grove Tower)」の2つの門です。
なお、クレムリンはロシア語の”城塞”の意味で、正式な読みは”クレムリ”です。
クレムリンの地図 : ”ハシム”さんの旅行記にあるもので、わかりやすい地図です。
トロイツカヤ塔を入った北側にある2階建ての建物で、18世紀初めにピョートル大帝の命で造られたかつての兵器庫です。
建物の周囲にナポレオン軍から奪った多くの大砲が飾られています。
内部は警備隊の兵舎として使われ、公開はしていません。
旧兵器庫の南向かいにある近代的建物です。
1961年の完成で、こけら落としの共産党大会では、フルシチョフ首相がスターリン批判を行い、レーニン廟からスターリンの遺体を追い出す決定をした歴史的な場所です。
現在は国際会議やボリショイ劇場の第二ステージに使われています。
クレムリンのほぼ中央にある広場で、周りをいくつもの古い聖堂で囲まれており、”聖堂広場”の意です。
帝政時代には戴冠式や集会など、国家行事がこの広場で行われました。
サボールナヤ広場の北側にある聖堂です。5つの金色のドームを持ち、フレスコ画やイコンで飾られています。
14世紀に建造された教会が地震で崩壊し、1479年にイタリアの建築家フィオラバンティを招いて再建したものです。
16世紀からは皇帝の戴冠式が行われ、ロシア正教の中心寺院となり、現在は大統領就任のロシア正教会による祝福が行われます。
サボールナヤ広場の東側にある金色のドームを持つ塔です。
1508年の建造で、1543年に増築され、81mの高さは当時国内で最も高い建物で、これを超える建物を造ることは許されなかったということです。
21個の鐘が付いています。鐘楼の前には重さ200tの「鐘の王様」、裏手には重さ40tの「大砲の王様」という中世の鋳造物が置かれています。
クレムリンの南西部にある、10年の歳月をかけて1849年に完成した大宮殿です。
幅125m、奥行き63mあり、外観は3階建て、内部は2階建てです。1階に皇帝の私室、2階に国事行事に使われたいくつかのホールがあります。
内部はかつて19世紀の絵画や彫刻、調度をふんだんに取り入れた豪華なものでしたが、一部は1939年にソ連の最高会議の議場として改造されています。
現在も外国要人や国家元首との会見に用いるため一般公開はしていません。
大クレムリン宮殿の西側にあるロマノフ王朝歴代皇帝の宝物を展示する博物館です。
16世紀に武器の製造や保管の倉庫が建てられ、18世紀初めに宝物館となり、1851年に現在の建物が建造されたものです。
中世の武器から宮廷衣装などの他、多くの金銀細工や王冠をはじめ財宝が展示されています。
クレムリンの北東側の城壁前にある石畳の広場です。
幅700m、奥行き130mの広大な広場で、15世紀頃に露店市場の立つ広場だったものが、19世紀に現在のように整備されたものです。
中央の城壁のそばに「レーニン廟」があり、広場の北東側には国営百貨店の「グム(ГУМ)」、南東側に「聖ワシリー寺院」、北西側に「国立歴史博物館」があります。
ソ連時代は巨大なマルクス、レーニンの肖像画を掲げて盛大な軍事パレードが行われ、西側諸国はクレムリンの城壁に並ぶ指導者たちの序列を見て権力の変化を注視していました。またソ連末期の1987年に、当時の西ドイツの青年が操縦するセスナが強行着陸して、簡単に侵入を許してしまった国防関係者に大きなショックを与えた事件もありました。
なお名称の”赤い(クラスナヤ)”は、”美しい”という古語から意味が変化してきたもので、共産主義のシンボル色から来たものではないそうです。
赤の広場の中央、クレムリンの正面にあるロシア革命の指導者レーニンの遺体を安置する廟です。
1924年の死去直後に遺体を防腐剤で永久保存化し、1930年に現在の赤褐色の花崗岩の廟が完成して地下に安置されました。現在もガラスに覆われて遺体を見ることができます。
エリツィン初代大統領によるソ連解体以後、共産主義時代の名残として神格化した保存をやめて、墓地に埋葬しようとする動きがあり、現在も賛否両論があるということです。
赤の広場の北西側にある博物館です。ロシアで最大級の博物館で、1883年開館の4つの塔を持つ赤レンガ造りの建物です。
石器時代からロシア革命前までのロシアに関する膨大な歴史資料を展示しています。
赤の広場の南東側にある教会です。
9つの異なった色と模様を持つネギ坊主形キューポラが特徴のカラフルな建物です。
”雷帝”と称されるイワン4世の命で1560年に完成したもので、あまりの美しさに感動した雷帝が二度と同じような建物が造れないように、二人の設計者の目をくりぬいたという逸話が残っています。
最も高い中央の塔は高さ47mあります。
赤の広場の北にある、オペラやバレエのための芸術劇場です。
1776年の創立で、現在の建物は火災のために1856年に再建されたものです。専属のオーケストラやバレエ団を持ち、頻繁に公演を行っています。
クレムリンの南西にある美術館です。
1912年にモスクワ大学付属の美術研究所として開設したのが最初で、古代ギリシャ、ローマの遺物から近代絵画まで2千点を収蔵し、モスクワで最大の西洋美術を展示する美術館です。特にモネ、ルノワール、マチスなどの印象派の傑作が見ものです。
なお名称のプーシキンはロシア最大の詩人ですが、この美術館との関係はなく、1937年の彼の没後100年に記念として冠されたものです。
クレムリンの南0.5kmにある美術館です。
実業家のトレチャコフ兄弟が1892年のコレクションを寄贈して発足した美術館で、中世以後のロシア作家の作品を中心に展示しています。
6万点に及ぶおびただしい作品を収蔵し、イコンのコレクションは世界最大といわれます。
クレムリン南西2kmのモスクワ川畔にある修道院です。
1524年に要塞として建てられたのが最初で、そのため周囲を長さ1kmの堅固な城壁で囲まれています。
中央に金色、その周りに4つの青いネギ坊主形のキューポラを持つ塔がある「スモレンスキー聖堂」を中心に、いくつもの建物が集まっています。
墓地にはチェーホフやプロコフィエフなど各界著名人が葬られています。
クレムリンの南西3kmにある丘で、モスクワ市内を一望できる展望台です。
ソ連時代には「レーニンの丘」と呼ばれていました。
ロシアの北西端近く、モスクワ北西650kmのフィンランド湾東奥にある人口450万人のロシア第2の都市です。
1703年にピョートル大帝がスウェーデンから奪取した地に建設した町で、建設は1万人もの犠牲を出す過酷なものだったといわれています。1918年まで首都だった地で、ロシアの文化芸術の中心地でした。ソ連時代の1924年から崩壊後の1991年までは、レーニンにちなんで「レニングラード(Ленинград/ Leningrad)」と名乗っていました。
市内をネバ川(Река Нева)が流れ、運河も多く、美しい景観から「北のベニス」ともいわれ、エルミタージュ美術館をはじめ、宮殿や修道院などの歴史地区が世界遺産となっています。
サンクトペテルブルク中心部の地図
市街中心部、ネバ川河畔にある大英、ルーブルと並ぶ世界最大級の美術館です。
1764年にエカテリーナ2世のコレクションを展示したのが始まりで、帝政時代の皇居だった「冬宮(Зимний Дворец/Winter Palace)」を中心に一体となっている5つの建物で成っています。
1050の部屋に280万点を超える収蔵品があり、ロシア絵画だけでなく、ダ・ビンチやラファエロなどのイタリア絵画、ルノアール、セザンヌなどのフランス絵画などの名作が多数あり、古代の発掘物や彫像などもあります。
なお「エルミタージュ」とは「隠れ家」を表すフランス語で、1917年に一般公開されるまでエカテリーナ2世専用の美術品収集の館だったための命名だということです。
エルミタージュ国立美術館の南側に広がる広大な石畳の広場で、「冬宮」に接するためこの名が付いています。
広場の中央に1834年に建てられた高さ47mの赤い花崗岩の塔「アレクサンドルの円柱(Александровская Колонна/ Alexander Column)」があります。
ロシア革命のきっかけとなった1905年の”血の日曜日”事件や、1917年の十月革命もここが舞台です。
エルミタージュ国立美術館の南西1kmにある市内で最大の教会です。
都市建造のピョートル大帝のための寺院として建造され、軟弱な地盤で度重なる破損と修復を経て1858年にようやく完成しました。
中央に黄金のドームを持つ高さ101mの塔がそびえ、幅111m、奥行き97mの壮大な建物です。
内部は博物館になっており、多くのイコンや美術品を展示しています。
聖イサク寺院北側の「デカブリスト広場(Площадь Декабристов/ Dekabristov Square)」にあるピョートル大帝の騎馬像です。
1782年にエカテリーナ2世がフランスの彫刻家ファルコーネに作らせたもので、彼女の権力の誇示を示すものといわれています。
”青銅の騎士”という名は詩人のプーシキンが名づけたものです。
聖イサク教会の南西1kmにある劇場で、1934〜1992年の間は「キーロフ劇場」と呼ばれていました。
建物は1859年に完成したネオ・ビザンチン様式で、サンクトペテルブルクにおけるオペラとバレエの殿堂となっています。
2003年には隣接して現代建築による新劇場がオープンしています。
エルミタージュ国立美術館の南南東1km、目抜き通りの「ネフスキー大通り(Невском Проспекте/ Nevsky Prospect)」沿いにある新古典様式の教会です。
1811年の創建で、バチカンのサンピエトロ寺院を模して、94本のコリント式列柱の並ぶ半円形の回廊が特徴です。
1932年に宗教史博物館となり、多くのイコンを収蔵しています。
エルミタージュ国立美術館の東1kmにある広大な広場です。9haの広さがあり、19世紀には軍事パレードや軍事教練が行われた場所です。
入り口近くに軍神マルスにたとえられた18世紀の将軍スボーロフの記念碑があり、中央には1917年の二月革命で亡くなった戦士の記念碑があります。
マルスの広場の東隣、ネバ川と運河で囲まれた12haほどの公園です。18世紀前半に庭園として造られ、歩道には多くの彫像が建てられています。
木立の多い市民の憩いの場となっています。
マルスの広場の南、運河沿いにある教会です。
農奴解放をした皇帝アレクサンドル2世が1881年に暗殺された地に1883年から1907年にかけて建てられたもので、別名「血の上の教会」といわれます。
モスクワの聖ワシリー聖堂に似て、色も模様も異なるネギ坊主形キューポラをいくつも頂く美しい建物です。
スパス・ナ・クロビ聖堂の南にある美術館です。1825年に完成した「ミハイロフ宮殿」の建物を1895年に美術館として公開したものです。
中世から現代に至るロシア美術作品35万点を収蔵します。
エルミタージュ国立美術館の北、ネバ川の対岸の中州の島にある要塞です。
ピョートル大帝がスウェーデンとの北方戦争中の1703年に、バルト海への出口確保のために建造を開始した市の発祥の地です。
外郭は1740年までかかって建造され、高さ12mの厚い城壁で囲まれています。内部には1733年に完成した大聖堂や鐘楼の他、造幣局や兵器庫などがあります。
帝政末期には、ドストエフスキーやゴーゴリなど帝政を批判する人々や政治犯を収容する監獄としても使われました。
ペトロパブロフスク要塞の東1.5km、ネバ川から支流が分かれる位置に係留された巡洋艦です。
かつてバルチック艦隊に属し、1905年の日本海海戦参加や、1917年の十月革命では開始の号砲を放つなどの経歴を持ち、1952年に退役して博物館となりました。
3本の煙突が特徴で、排水量は6千tです。
エルミタージュ国立美術館の南東5km、ネフスキー大通りの終点にある大修道院です。
1710年の創建で、11の教会と4つの墓地があります。
墓地は、チャイコフスキー、ムソルグスキー、ドストエフスキーなど芸術家を中心に多くの著名人が葬られています。
サンクトペテルブルクの西25km、フィンランド湾に面するピョートル大帝の夏の離宮です。
1705年に最初に大帝が訪れ、1710年に小さな宮殿を建て、1714年からベルサイユ宮殿を模して大宮殿と庭園の建設が始まり、1725年に完成、その後も手を加えられています。
第二次大戦中にドイツ軍に破壊されましたが、戦後修復作業が続けられて1995年にすべての修復が完了しました。
敷地は10kuに及び、中央に「大宮殿(Большой Дворец/ Grand Palace)」があり、全体で20の宮殿、7つの公園があります。
また140を超える噴水が至る所に配され、傾斜を利用してポンプを使わずに吹き上げる仕組みになっています。
アクセスはエルミタージュ美術館のそばから出る高速船で海側から入るのが一般的です。
なお、最近まで「ペトロドバレツ(Петродворец/ Peter's Palace)」という”ピョートルの宮殿”の意の名称が使われてきました。元来の名称「ペテルゴフ」はドイツ風の名前のため、戦後それを嫌って変えられましたが、1997年から再び「ペテルゴフ」に戻されています。
サンクトペテルブルクの南25kmにある小さな町です。”皇帝の村”の意で、「エカテリーナ宮殿」があります。
詩人プーシキンが学び、多くの詩作を行った町で、ソ連時代は「プーシキン市」と呼ばれました。
1941年にドイツ軍に占領されて、破壊や略奪が行われましたが、戦後宮殿とともに18世紀の雰囲気の町並みが復元されています。
ツァールスコエ・セロの町にあるバロック様式の宮殿です。
1756年にイタリアの建築家ラストレッリが建造したもので、エカテリーナ2世の夏の離宮として使われました。
建物は全長305mで、白と水色の配色の外観をしています。内部は55の部屋があり、特に6tのコハクを使用したといわれる「琥珀の間」はドイツ軍の破壊からの復元が2003年に完了し、当時の姿をしのぶことができます。
江戸時代の船頭・大黒屋光太夫がアリューシャン列島に漂着し、1791年にロシアからの帰国請願のためにこの宮殿でエカテリーナ2世に謁見したという史実もあります。
ロシアの観光地ガイドのページ
モスクワとサンクトペテルブルク(このページ)|ロシア各地
ロシア旅行に関する基本情報、雑学、関連サイトリンクなどのページ
ロシア旅行のいろいろ情報
ロシアへのツアー情報のページ
ロシアへのツアー
Copyright © 2006-2008 REISENDER All Rights Reserved. 海外旅行準備室